もうじゅうぶん

おはようございます。
にょろにょろです。

ここを読んでいる人は、多かれ少なかれ、
人生に疲れている人なんじゃないかと思うの。
きっと、適応障害、とかで検索して見つけてくれたのだろうから。

類は友を呼ぶという現象が、
きっとネットの世界でも起こるのだと思う。
はい、私も人生に疲れています。

でもさ、我々、
もう、じゅーーーーーぶん、よくやったよ。
十分ひとに優しくし続けたし、
じゅうぶんひとに礼儀正しくしたし、
じゅうぶんひとを信じようとしてきた。
もうじゅうぶん、前を向こうとしたし、
何度も何度も立ち上がろうとした。

でも、まだ辛いじゃないですか。

もうじゅうぶん、傷ついたし、
もうじゅうぶん、裏切られたし、
もうじゅうぶん、辛さも味わった。
もう、辛いのは、じゅうぶん。

だから、もう、人に優しくするのやめましょ。
嫌な人のいいところを「きっとあるはず!」と
躍起になって探したりするのやめましょ。
もう、人に丁寧に接したり、
親切にしたりするのやめましょ。
人を信じることもやめましょ。
みーんな無駄。
じゅうぶんやって、報われないもの。
いくらやっても、傷つけられ続けるんだもの。

こういうこと言うと、
すぐ、マザーテレサの言葉とか引用して
反論してくるひといるけど、無視無視。
知らないんですよそういう人は。
傷つけられ続ける辛さも、
からだじゅうの痛みも、
からだが動かなくなるもどかしさも、
ただ太陽が空を移動してゆくのを布団の中でゴミ袋のように感じているだけの虚しさも。

我々はもう、じゅうぶん。
何年も辛いのなんて、普通じゃない。
毎日からだのどこかしらが痛いのなんて、普通じゃない。
もうじゅうぶん、ポジティブに生きようとしたし、
もうじゅうぶん、ネガティブも味わった。
もう、なんも努力なんてしないでいいですよ。

優しくしてくれる人を大切にできれば
それでいい。
優しくしてくれない人は存在を無視していい。

一緒にいて嬉しい気持ちになる人を喜ばせることができれば、
それでいい。
一緒にいて嫌な気持ちになる人のことなんて、
気に病む必要ない。

言われて嬉しかった愛ある言葉を思い出し続ければいい。
言われて悲しくなったり傷ついたり嫌な気持ちになった言葉なんて、
全部忘れていい。

私たちは、傷つきやすいぶん、
そばに置くものに注意する必要がある。
世界が私を淘汰するならば、
私だって世界の一部を選択して淘汰して構わない。
私たちにはその権利がある。
嫌なものにもなに食わぬ顔して付き合うのが美徳って悪習が幅をきかせてるけど、
嫌なものからは遠ざかる権利はもちろんある。
嫌なものと付き合える人は付き合えばいいだけ。
嫌なものと付き合える人が偉い訳じゃない。
ただそういう性質があっただけ。
目の色が茶色かったり黒かったりするのと同じ。
優劣じゃない。
ここを読むような人は、傷つきやすい性質があるから、
嫌なものと付き合う必要なんてない。
嫌なものと付き合えないからといって、
こどもっぽいわけじゃないし、
できない大人なわけじゃないし、
仕事ができないというレッテルを貼られるわけでもない。
ここを読むような人は、
嫌なものにも、もうじゅうぶん、対応したんですよ。
全然こどもっぽくない。
むしろ、かなりできた大人だと思うし、
仕事でも信用されて頼られてる部類だと思う。
自分の心身がずたぼろになるまで、
嫌なものにも、じゅうぶん、対応したんですよ。
基本のレベルはとうに越えているのだから、
もう、いいんですよ。それ以上、耐えなくて。
現に、人に話せば、大変だったね、とか、
よく我慢したね、とか、俺ならそれ断るよ、とか、
よく言われるでしょう。
もう、我々はじゅうぶん、「嫌なことに耐える」を
実践してきたんですよ。大人として。

もう無理して笑わないで。
マスクしてチベットスナギツネの顔して過ごそう。